【行水の捨てどころなし虫の声】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説!!

 

日本には有名な俳人に詠まれた、優れた作品が数多く残されています。

 

それらの俳句は、今になっても多くの人達に親しまれているのです。

 

今回はそんな名句の中でも「行水の捨てどころなし虫の声」という日本らしい情緒さが伝わってくる作品を紹介していきます。

 

 

本記事は、「行水の捨てどころなしの虫の声」の俳句の季語や意味・表現技法・作者などを詳しく解説していきます。

 

俳句仙人

ぜひ参考にしてみてください。

 

「行水の捨てどころなし虫の声」の季語や意味・詠まれた背景

 

行水の 捨てどころなしの 虫の声

(読み方 : ぎょうずいの すてどころなしの むしのこえ)

 

こちらの句は、「上島鬼貫(うえじま おにつら)」が詠んだ作品です。

 

 

 

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それでは、早速こちらの俳句について詳しく紹介していきます。

 

季語

こちらの季語は「虫の声」、季節は「秋」を示します。

 

「虫の声」は昆虫全般を指すのではなく、鈴虫やマツムシなどの秋に鳴く虫たちを総称したものです。

 

また、句中の「行水」も「夏」を表現する季語ですので、こちらの俳句は2つの季語が入っている「季重なり」となります。

 

しかし、この句は秋に鳴く虫たちの声をメインに詠んでいるため「虫の声」が季語となります。

 

【補足情報】行水(ぎょうすい)について

行水は、夏に暑さをしのぎ涼を取るためにも行われたため、夏の季語になっています。

行水の方法としては、水を入れた木製のたらいに湯を足して温度調節し、下半身を浸けて手桶で肩から水を流したり、たらいの水に浸した手拭を絞り、体を拭ったりしました。

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場合によっては垣根で囲われた庭にたらいを置いて戸外で浴びる姿なども江戸時代から明治・大正の風俗を示した絵などに残っています。

 

意味

こちらの俳句を現代語訳すると・・・

 

「行水に使った水を捨てようとしたものの、あちらこちらから虫の声が聞こえてきて水を捨てる場所がない。」

 

となります。

 

行水は現代ではあまり馴染みがない言葉ですが、行水とは暑い夏場にたらいに水をはり、体を洗うこと(昔の入浴)を指します。

 

つまり、こちらの句では行水に使用し終えた水を捨てるシーンを詠んでいます。

 

「行水の水を捨てようとしたけれども、秋の気配を感じさせる虫たちの声が聞こえてくるので水の捨て場に困っている」という様子を詠んだ俳句です。

 

初秋に鳴く虫たちはとても声の響きがよく、聞いていると「暑い夏が終わってもう秋が来るのだなあ」と感じさせられます。

 

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そんな虫達を愛おしみ、そして小さな命を大切にする優しい人柄が伝わってくる俳句です。

 

この句が詠まれた背景

こちらの句は、暑い夏から秋への季節の移り変わりが詠まれています。

 

行水の虫の声といった言葉に風情が感じられ、日々の季節を肌身に感じながら生活していることが分かります。

 

また鬼質が詠んだ俳句を揶揄する川柳として「鬼貫は夜中たらいを持ち歩き」という作品があります。

 

「夜になると虫たちが鳴き声をあげるので、鬼質は夜中になってもたらいを持ってうろうろとしているよ」と詠んでいるのです。

 

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しかし、こちらの川柳に詠まれるほど鬼質の俳句は人々の心をつかみ、共感を呼ぶ作品であったと言えます。

 

「行水の捨てどころなし虫の声」の表現技法

 

こちらの俳句で使われている表現技法は・・・

 

  • 「行水」「虫の声」の部分の季重なり
  • 「虫の声」の部分の体言止め

 

になります。

 

季重なり

季重なりとは、1つの俳句に季語が2つ入っていることです。

 

こちらの俳句では「行水」(夏)と「虫の声」(秋)の部分が、季語となっており季重なりであると分かります。

 

基本的に1つの俳句に1つの季語がルールですが、主題が明確な場合には2つ季語を使用できます。

 

どちらが季語であるかは、作者が何をテーマに詠んだ俳句であるかを見極めれば、容易に判断可能です。

 

体言止め

体言止め」とは、下5句の部分を名詞で止める技法のことを言います。

 

こちらの俳句では「虫の声」の部分が体言止めに該当します。

 

体言止めを用いることにより、俳句のインパクトを強め、心に残る作品に仕上がります。

 

「行水の捨てどころなし虫の声」の鑑賞文

 

【行水の捨てどころなし虫の声】の句は、暑い夏が終わりを告げ、秋の気配が感じられる様子が伝わって来る情緒感溢れる俳句です。

 

青々とした草花の影で、強い日差しを遮りながらマツムシやこおろぎ、鈴虫たちが鳴く様子がイメージできます。

 

ここで行水の水をうっかり捨ててしまうと「虫たちの鳴き声が聞けなくなってしまう」と困っている上島の思いも感じられます。

 

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また、「虫たちが捨てられて行水の水にビックリしてしまったらかわいそう」という小さな命をいたわる上島の優しさも感じ取れる作品となっています。

 

「行水の捨てどころなし虫の声」の補足情報

江戸時代のお風呂事情

この句では「行水」に使った水を捨てる場所がない、と困っている様子が描かれていますが、行水はガス給湯器が普及する昭和までよく行われていました。

 

一般的な大きさの風呂に入れた水を適度な温度まで加熱するにはかなりの燃料がかかるため、ガス給湯器が普及するまでは行水を主に行っています。

 

行水はタライに貯めたお湯で体を洗う、現在のシャワーのようなものです。肩まで浸かる風呂は少なく、「五右衛門風呂」を使用するか、銭湯に行かなければなりませんでした。

 

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また、銭湯でも作者の時代では蒸し風呂が多く、現在のイメージの「銭湯」とは全く異なっています。

 

この句が詠まれた時間帯

この句では「虫の声」とあるため、夕方から夜くらいの時間帯が思い浮かぶでしょう。

 

実際に、秋に鳴くコオロギやスズムシなどは、30℃を下回ると鳴き始めると言われています。

 

現在は猛暑が続き、日が落ちても30℃を下回らない日もありますが、江戸時代は今よりも気温が低かったと考えられているため、夕方には鳴き始めていたでしょう。

 

行水と虫の声の俳句

同じテーマで作者の親友である「来山」という人も俳句を詠んでいます。

 

「行水も 日まぜになりぬ 虫の声」

(訳:涼しくなって行水も一日おきにするようになって、虫たちの美しい声がよく聞こえるようになった)

 

こちらでは季節の進み方に視点を置いて詠んでいます。

 

暑さを凌ぐための行水をしながら虫の声を聞いていたのが、涼しくなってきて行水の間隔が一日おきになり、虫の声がさらに美しく聞こえてくる様子がよく分かる句です。

 

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作者の行水の句とどちらが先に詠まれたかはわかりませんが、友人同士だったこともあって同じテーマで競うように俳句を詠んでいたのかもしれませんね。

 

作者「上島鬼貫」の生涯を簡単にご紹介!

上島鬼貫は、江戸時代の俳諧師です。

 

 

1661年(万治4年)に現在の兵庫県伊伊丹市(旧摂津国川辺郡丹郷)に生まれ、実家は地元でも有名な酒造業者でした。

 

13歳で江戸時代の俳人松江重頼に、後に西山宗因の談林派に入門しています。

 

25歳の時に医学を志して大阪に上京しますが、結局は士官となり勘定職や京都留守居役として勤めました。松尾芭蕉と親交があり、上島の俳句には随所に芭蕉の俳句の影響が伺えるとされています。

 

1718年(享保3年)に『獨言(ひとりごと』を刊行。その中で「誠のこと(真実)を読まなければ俳諧ではない」とし、「東の芭蕉・西の鬼質」と評価されるほどでした。

 

1738年(元文3年)に現在の大阪市中央区鰻谷(旧大阪鰻谷)で78歳で死去。

 

1991年(平成3年)から故郷伊丹市にある財団法人柿衛文庫主催の俳句コンクールにおいて「鬼質賞」が設けられるようになりました。

 

上島鬼貫のそのほかの俳句

 

  • 月なくて昼ハ霞むや昆陽の池
  • 賎の女や袋あらひの水の色
  • 水無月や風に吹かれに故郷へ
  • 古城や茨(いばら)くろなるきりぎりす
  • 富士の雪我津の国の生れ也