日本の伝統的な芸能の一つである「俳句」。
日本には著名な俳人達によって詠まれた数多くの作品があります。
今回は、日常のワンシーンを題材とした句「ところてん煙のごとく沈みをり」という句をご紹介します。
「ところてん煙のごとく沈みをり 日野草城」。好きな句です。日野草城は、「俳句は東洋の真珠である」と言った人です。戦後は大阪の池田市に住んでいました。
— 四季の企画室 野の (@shikinonose) August 2, 2011
本記事では、「ところてん煙のごとく沈みをり」の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者について徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「ところてん煙のごとく沈みをり」の季語や意味・詠まれた背景
ところてん 煙のごとく 沈みをり
(読み方 : ところてん けむりのごとく しずみをり)
こちらの句の作者は、日本を代表する俳人「日野草城(ひの そじょう)」です。明治後期に生まれ、大正、昭和の中期に活躍した俳人です。
季語
こちらの句の季語は「ところてん」で、季節は「夏」を表します。
現代では一年中食べられているイメージがある食べ物であるため、「夏」と聞いてもピーンと来ないかもしれません。
しかし、冷奴と同じように「冷たい食べ物」であり夏によく食べられるため、俳句では「夏」を示す季語となります。
意味
こちらの句の現代語訳は・・・
「ところてんがけむりのように沈んでいった」
となります。
こちらのキーポイントは「煙のごとく」です。
ところてんと煙は、なんの関連性がないように感じられるかもしれません。しかし、実はこれはところてんを作る過程を表現しています。
ところてんは、天草を煮詰め固めたものを「ところてん突き」という箱状のものを押し出し作ります。
その押し出された、ところてんがまるで「煙のように見える」と表現しているのです。
つまり、「ところてんをところてん突きで突き出すと、まるで煙のように出てきて、器の中に沈んで行ったよ」というワンシーンを詠んでいるのです。
この句が詠まれた背景
この句は、ある夏の日にところてんを作っている情景を詠んだ作品です。
当時はどこの家庭でも見られる情景だけに、庶民の暮らしぶりなども伺えます。
こちらの作品は、1927年(昭和2年)に刊行された『花氷』に掲載されています。
煙もところてんも白さという点で共通しているだけですが、見方を変えるとこのように表現でき、ユーモラスで粋な作品です。
「ところてん煙のごとく沈みをり」の表現技法
「煙のごとく」の部分の「直喩法」
直喩法とは「如く」「如し」のように表現し、物事を何かに喩えてイメージしやすくさせる技法です。
読み手に文章の意味が伝わりやすくなり、印象に残りやすい作品に仕上がります。
こちららの作品では、「煙のごとく」が直喩法となっており、「ところてんがところてん突きから出て来る様子が、まるで煙のようだ」と詠んでいます。
こうすることで「ところてんが煙のような状態で突き箱から出て来る情景」をイメージしやしくなります。
句切れ
句切れとは、意味やリズムの切れ目のことです。
句切れは「や」「かな」「けり」などの切れ字や言い切りの表現が含まれる句で、どこになるかが決まります。
この句の場合、初句(五・七・五の最初の五)に、「ところてん」の名詞で区切ることができるため、初句切れの句となります。
「ところてん煙のごとく沈みをり」の鑑賞文
【ところてん煙のごとく沈みをり】からは、ところてんを作っている家庭の温かいシーンをイメージでき、ほっこりと和やかな気持ちになります。
そして、暑い夏に冷たいところてんを作っている様子は、涼やかで清涼感もあります。
日頃はなんとも感じられないところてんを作る情景も、視点を帰ると面白いものだなあと思う作品です。
もくもくと立つ煙と、ところてん突きからニョロニョロと出て来るところてんは、どちらも白く、その様子を眺めていると本当にそっくりだと新たな発見に気づかされ、ユーモアに溢れています。
作者「日野草城」の生涯を簡単にご紹介!
草城忌,東鶴忌,銀忌
俳人・日野草城の1956(昭和31)年1月29日の忌日。
無季俳句、連作俳向を率先し、モダンな作風で新興俳句の一翼を担った。「春の灯や 女は持たぬ のどぼとけ」 pic.twitter.com/eKkMZHNuK8
— 久延毘古⛩陶 皇紀2679年令和元年師走 (@amtr1117) January 28, 2019
日野草城は、1901年(明治34年)に現在の東京都台東区上野に生まれ、本名は克修(よしのぶ)といいます。無季俳句を作り、昭和初期の新興俳句運動の主導者として活躍しました。
草城氏は、1921年東京帝国大学法律学部に入学し、卒業後は保険会社に勤務します。
しかし、その後は肺結核により退職。
10代から俳句を嗜み、サラリーマン時代も投稿を続けて、1933年には新興俳句誌『京大俳句』創刊顧問となります。
しかし、作成した俳句が問題となり『ホトトギス』から除名。この一連の問題は、俳句の世界にも大きな旋風を起こしました。
1949年に「青玄」を創刊、主宰するも1956年に心臓衰弱にて死去します。
日野草城のそのほかの俳句
- みずみずしセロリを噛めば夏匂う
- 春暁や人こそ知らね木々の雨
- 春の灯や女は持たぬのどぼとけ
- ものの種にぎればいのちひしめける
- 高熱の鶴青空に漂へり
- 夏布団ふわりとかかる骨の上
- 見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く