【金粉をこぼして火蛾やすさまじき】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者など徹底解説!!

 

明治時代から昭和時代に活躍した有名俳人「松本たかし」。

 

彼は数多くの名句を残し、後世の文学や芸術にも大きな影響を与えています。

 

松本たかしが残した名句は数多くありますが、今回はその中でも「金粉をこぼして火蛾やすさまじき」という句について紹介したいと思います。

 

 

本記事では金粉をこぼして火蛾やすさまじき」の季語意味表現技法作者について徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「金粉をこぼして火蛾やすさまじき」の季語や意味・詠まれた背景

 

金粉を こぼして火蛾や すさまじき

(読み方 : きんぷんを こぼしてひがや すさまじき)

 

こちらの作品の作者は、日本を代表する俳人松本たかしです。松本たかしは明治時代から昭和時代に活躍した俳人です。

 

それでは、早速こちらの俳句について詳しくご紹介していきます。

 

季語

こちらの季語は「火蛾(ひが)」で、季節は「夏」を表します。

 

「火蛾」とは、夏の夜に街灯に集まってくる蛾のことです。

 

意味

こちらの俳句を現代語訳すると・・・

 

「金粉をこぼしながら灯火に集まって来る蛾がすごいことだなあ」

 

という意味になります。

 

この作品は、夏の夜に外灯に集まって来る蛾の姿を見て詠まれた作品です。

 

外灯の灯りに焼かれながらも、金粉を撒き散らしながら舞うように飛んでいる、生命力の凄さを俳句に表現しています。

 

その姿はまるで死んで無限の生命を得ようとしているようにも見られ、生命の不可思議・神秘さをも伝わって来る作品です。

 

この句が詠まれた背景

こちらの作品は『松本たかし』句集に掲載されている作品です。

 

ある夏の夜に、外灯に集まった蛾が鱗粉を撒き散らしながら舞い飛ぶ様子を表現した俳句です。

 

外灯の灯りに焼かれながらも舞う蛾の命を詠んでいます。

 

また、こちらの俳句を解釈する上で松本たかしがどのような生涯を送ったかという点が、重要なポイントです。

 

松本たかしは、能楽の家に長男として生まれ、本来であったら能楽師の人生を歩む予定でした。

 

しかし、14歳で肺尖カタルと診断され、その後も療養生活を余儀なくされため、能楽師としての道を諦めざるをえませんでした。結果、家業を継ぐのは無理があり、俳句の道に進んでいます。

 

この句はそんな体の弱い自分と、外灯の熱さにも負けずと舞う蛾の命の強さを比較して詠んだ句とも言えます。

 

「金粉をこぼして火蛾やすさまじき」の表現技法

切れ字「や」(二句切れ

切れ字とは、「感動が伝わりやすくなる」「共感を呼びやすい」「インパクトを与える」といった主に3つの効果がある表現技法のことです。代表的な切れ字には「や」「かな」「けり」などがあげられます。

 

こちらの句は「火蛾や」の「や」が切れ字にあたります。

 

こちらの作品では、「火蛾や」と呼びかける事で味わい深く、こちらで一息付けるリズム感がある作品になっています。これにより、読み手の共感を招き、その風景をイメージしやすくなっています。

 

また、こちらの句は切れ字によって「五七/五」のように二句目で切れているため、「二句切れ」の句となります。

 

「金粉をこぼして火蛾やすさまじき」の鑑賞文

 

「金粉をこぼして火蛾やすさまじき」。こちらの俳句からダイレクトに伝わって来るのが「生命力」です。

 

句からは外灯に焼かれながらも、なお飛び続ける蛾の生命強さを感じ取れます。蛾特有の鱗粉(りんぷん)は灯りが反射し、金粉のようにも見えます。

 

生命の危険に晒されながらも鱗粉を撒き散らし、まるで無限の命を得るために飛び交う様子がイメージできる作品です。

 

さらに、病身の自分はこんな小さな蛾の命にさえも勝てないほど弱いものなのだなあという寂しさが感じ取れます。

 

こちらの俳句には、外灯に焼かれながらも舞うように飛ぶ蛾の生命力の強さへの憧れ、そして病身だったため思うような道を生きられなかった自身への哀れみが含まれています。

 

作者「松本たかし」の生涯を簡単にご紹介!

 

1906年(明治39年)に東京都に生まれ、生家は能楽家です。松本たかしは俳号で、本名は松本孝です。

 

満5歳から能を初めますが、14歳の時に肺尖カタルと診断されます。その後も神経衰弱となり、能の道を諦めてしまいました。静養中に読んだ俳句雑誌『ホトトギス』の影響によって、俳句の道を志すようになります。

 

16歳の時に高浜虚子に師事し、23歳の時に准看護師の高田みつと夫婦生活をスタート。虚子から貰う仕事をベースに生活をしていきます。

 

39歳の時に島村茂雄の誘いにより上京し、1946年に『笛』を創刊。1945年第四句集『石魂』で第5回読売文学賞を受賞しました。

 

1956年2月に脳溢血を起こし俳句の道を断念。同年5月11日に心臓麻痺によりなくなっています。

 

松本たかしのそのほかの俳句

 

  • 玉の如き小春日和を授かりし
  • チヽポヽと鼓打たうよ花月夜
  • 春月の病めるが如く黄なるかな
  • 海中に都ありとぞ鯖火燃ゆ
  • 夢に舞ふ能美しや冬籠
  • 水仙や古鏡のごとく花をかゝぐ
  • 雪だるま星のおしやべりぺちやくちやと