俳句は、日本の伝統文芸で、江戸時代の俳諧や発句がもとになっています。
大政奉還を経て、日本は江戸から明治へと大きく転換。国の仕組み・人々の暮らし・文化・あらゆることが変化しました。
江戸時代、俳諧や発句として親しまれていた短型詩を近代化させたのが、正岡子規という文学者です。
不幸にして若くなくなりましたが、短い人生を駆け抜けた彼の業績は今なお高く評価されている人物です。
今回は、そんな正岡子規の詠んだ「若鮎の二手になりて上りけり」という句をご紹介します。
「若鮎の二手になりて上りけり」 pic.twitter.com/35LBQCfXee
— あさづけ◆フォント擬人化 (@raimasue) April 29, 2014
本記事では、「若鮎の二手になりて上りけり」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「若鮎の二手になりて上りけり」の作者や季語・意味
若鮎の 二手になりて 上りけり
(読み方:わかあゆの ふたてになりて のぼりけり)
この句の作者は「正岡子規」です。
子規は明治時代の俳人、歌人にして研究者でもあります。俳句という言葉を定着させたのも、正岡子規です。
季語
この俳句の季語は「若鮎」、季節は「春」です。
鮎という魚は川の下流域に産み付けられた卵からふ化し、一度は海に出て海で育ちます。そして、春(2~3月ごろ)から群れをつくって川をさかのぼります。この時期の鮎を「若鮎」と言います。
川をさかのぼった鮎は、中流から上流域でなわばりを作って生息。このころは単に「鮎」といい、夏の季語です。
秋になると鮎は産卵のために下流へと下っていきます。体の色も黒やオレンジに変化します。この時期の鮎を「落ち鮎」、「錆び鮎」といい、これらは秋の季語となります。下流域で産卵をした鮎はその後死んでしまいます。
意味
この句を現代語訳すると・・・
「若鮎が、二手に分かれて川をさかのぼっていくことだ。」
といいう意味になります。
川を遡上する鮎の姿に春の深まるのを感じる爽やかな句です。
「若鮎の二手になりて上りけり」が詠まれた背景
こちらの句は、「獺祭書屋俳句帖抄 上巻」「寒山落木」の句集に所収されている句になります。
(※「獺祭書屋俳句帖抄」は、明治25年(1892年)から明治29年(1896年)までの句の自選集、「寒山落木」は明治18年(1885年)から明治29年(1896年)の句を分類、整理して自選したものをまとめた句集のこと)
これらの句集に、この句は「石手川出合渡(いしてがわ であいのわたし)」という前書きがついて収められています。
つまり、石手川の出合の渡し船で詠んだ句という意味です。
「石手川」というのは、正岡子規のふるさと、愛媛県松山市を流れる川のこと。「出合」で、「重信川」と合流します。
現在は橋が掛かっていますが、正岡子規が若い日を過ごした時代には渡し船で往来していました。
また、この句は、初案が句集にのる形とは異なっていたようです。
東京に住んでいた正岡子規が、明治25年(1892年)6月17日に故郷松山にいる河東碧梧桐(※正岡子規の高弟のひとり。公私ともに深い縁を持った。)に送った書簡には・・・
「若鮎の二手になりてながれけり」
とありました。
「ながれけり」を、鮎の川をさかのぼる習性に合わせて推敲して、「上りけり」にかえて句集に収めたと言われています。
この句を詠んだころ、正岡子規は俳句の革新運動に本格的に取り組み、新聞記者としてのキャリアもスタートさせています。句に登場する若鮎のように新たな旅立ちの時期でもありました。
「若鮎の二手になりて上りけり」の表現技法
切れ字「けり」(句切れなし)
切れ字とは、一句の感動の中心を表す言葉のことで、代表的のものとして「かな」「や」「けり」などがあります。切れ字は主に「…だなあ」のような意味に訳されることが多いです。
この句では「上りけり」の「けり」が切れ字に当たります。
「けり」は、代表的な切れ字「かな」「や」「けり」の中では最も強い表現となり、言い切りの形で使われます。
つまり、作者は鮎が遡上する姿に強く感興を催してこの一句を詠じたのです。
また、一句の中で、意味上・リズム上大きく切れるところを句切れと呼びます。
普通の文であれば句点「。」がつくところ、「かな」「や」「けり」などの切れ字がつくところで句切れとなります。
この句は結句の「上りけり」まで切れるところはありませんので、「句切れなし」の句となります。
若鮎が一直線に川をさかのぼる勢いそのままに、切れることなく言葉が連なる句となっています。
「若鮎の二手になりて上りけり」の鑑賞文
【若鮎の二手になりて上りけり】は、生き生きとした鮎の姿が目に浮かぶような写生的な句となっています。
「二手になりて」とあるのですから、当然鮎は一匹ではありません。
群れをなす魚なので、たくさんの魚影が作者の目には映っています。鮎たちは石手川と重信川の合流地点で二手に分かれ、さらに遡上を続けていくのです。
透き通った清流の流れや、魚を映し出す柔らかな春の日光が降り注ぐ様子もまざまざと浮かび上がってきます。
若々しい生気があふれる一句です。
作者「正岡子規」の生涯を簡単にご紹介!
(正岡子規 出典:Wikipedia)
正岡子規は1867年(慶応3年)、愛媛県松山市に生まれました。本名は常規(つねのり)です。
旧松山藩士の家柄で、幼い頃から漢詩、戯作、書画なども学びました。
松尾芭蕉や与謝蕪村の書もよく読み、江戸時代までの俳諧、発句を近代的な俳句として確立しました。
若いころから結核菌におかされ、たびたび喀血に見舞われながら、文学の道をつきすすみました。
子規、という雅号は、血を吐いて鳴くといわれるホトトギスという鳥の異名です。
1902年(明治35年)に34歳という若さで世を去りましたが、正岡子規の名は日本の文学史上に燦然と輝き、後世に多大な影響を与えました。
正岡子規のそのほかの俳句
(前列右が正岡子規 出典:Wikipedia)
- 柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
- 紫陽花や昨日の誠今日の嘘
- をとゝひのへちまの水も取らざりき
- 赤とんぼ 筑波に雲も なかりけり
- 夏嵐机上の白紙飛び尽す
- 牡丹画いて絵の具は皿に残りけり
- 山吹も菜の花も咲く小庭哉
- 毎年よ彼岸の入りに寒いのは
- 雪残る頂ひとつ国境
- いくたびも雪の深さを尋ねけり
- 柿くふも今年ばかりと思ひけり
- 鶏頭の十四五本もありぬべし