五・七・五の十七音に季節や心情を詠みこむ「俳句」。
四季を感じる、日本ならではの文化として、多くの人に親しまれています。
今回は、有名俳句の一つ「残雪やごうごうと吹く松の風」という句をご紹介します。
残雪や ごうごうと吹く 松の風(村上鬼城) #俳句 pic.twitter.com/r7ZHWSTvgP
— iTo (@itoudoor) March 9, 2014
本記事では、「残雪やごうごうと吹く松の風」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「残雪やごうごうと吹く松の風」の俳句の季語や意味・詠まれた背景
残雪や ごうごうと吹く 松の風
(読み方:ざんせつや ごうごうとふく まつのかぜ)
この句の作者は、「村上鬼城(むらかみきじょう)」です。
大正から昭和の初期にかけて活躍した日本を代表する俳人の一人です。
季語
この句の季語は「残雪」、季節は「春」です。
残雪とは、春になっても消えずに残っている雪のことです。春になっても日の当たらない場所では雪が残っていることが多く、山の岩陰や建物の日陰などに見られます。
雪という字が入っていると、冬の季語と思いがちですが、雪の状態によってはこのように春の季語となることもあります。
意味
こちらの句を現代語訳すると…
「残雪の松の林に風が強く吹き付け、松林全体がごうごうと鳴り響いている」
という意味です。
しかし、「松林に風が吹き付けている、その背景に残雪の山があり、春を待っているようだ」との訳もあります。
これは「残雪が松林にあるのか」「背景の山にあるのか」で解釈が分かれています。
この句が詠まれた背景
この句は大正15年(1926年)版の「鬼城句集」に収められています。
鬼城は、大正5年に耳の病気の悪化から代書人(現在の司法書士)の職を追われますが、法曹界の俳人の尽力で1年後に復職することができました。
その後、俳句雑誌の選者や指導料で収入を得ることができるようになり、大正6年に発表した「鬼城句集」で一気に俳人としての知名度が高まり、生活が安定するようになりました。
「鬼城句集」はその後、この句の収められている大正15年版が出され、昭和8年(1933年)には「続鬼城句集」が発表されました。
鬼城は8歳から群馬県高崎市に移り、73歳で亡くなるまでこの地に住みました。
群馬では「上州空っ風」といって、冬に北から吹く乾燥した冷たい強風が吹きます。春の季節を詠んだ句ですが、「ごうごうと吹く」風は「上州空っ風」の名残なのかもしれません。
「残雪やごうごうと吹く松の風」の表現技法
「残雪や」の「や」の切れ字
切れ字は「や」「かな」「けり」などが代表とされ、句の切れ目を強調するときに使います。
「や」は初句(五・七・五の最初の5文字)で使われ、詠嘆の表現や呼びかけに使われる言葉です。
また、切れ字のあるところで句が切れることを句切れといいます。この句は初句に「や」がついており、「初句切れ」の句です。
「ごうごうと」の擬音語
擬音とは、状況をそのまま音で表現する方法です。
自然界の音や物音を表すものを「擬音語」といい、人間や動物の声を表したものを「擬声語」といいます。
「ごうごうと」は、はげしい風や電車の音など、騒がしくひびくようにうなる音を表します。
漢字で書くと「轟轟」などの字が当てられ、大きな音がとどろいていることがわかります。
「松の風」の体言止め
体言止めは、語尾を名詞や代名詞などの体言で止める技法です。美しさや感動を強調する、読んだ人を引き付ける効果があります。
「松の風」の名詞で体言止めすることで、ごうごうと風に大きく揺れる松林の様子が強調されます。
「残雪やごうごうと吹く松の風」の鑑賞文
「松の林」の風景は、うっそうとしていて暗く、さみしいイメージがあります。
「残雪」は春の半ばごろの季語とされ、春の訪れを表現します。
まだ冬の寒さも残っている冷たい空気のなかで、大きくうねる風に揺れながらも冬を耐えてきて春を迎えようとする松の生命力が感じられる句です。
また、鬼城は座右の銘として「心耳」を掲げています。
心眼は、心の目によって目に見えない真実を確かめることですが、耳の不自由な鬼城は「心眼」ではなく「心耳」としていました。
「心耳」でとらえた自然の音を俳句に詠みこむことで、冬から春への季節の移り変わりと、荒々しい自然の様子が伝わってきます。
作者「村上鬼城」の生涯を簡単にご紹介!
鬼城忌
俳人・村上鬼城の1938(昭和13)年9月17日の忌日。
秋の暮 水のやうなる 酒二合 pic.twitter.com/6sEv0jxMBs
— 久延毘古⛩陶 皇紀2679年令和元年師走 (@amtr1117) September 16, 2019
村上鬼城は1865年に東京都に生まれました。本名は、村上荘太郎(しょうたろう)といいます。
8歳の時に、群馬県高崎市に移り、11歳で母方の養子となり村上姓を名乗るようになりました。
陸軍の軍人を目指していましたが耳の病気で難聴となり、断念します。明治法律学校で学び、司法代書人(現在の司法書士)として働きながら、正岡子規に俳句を教わり、「ホトトギス」へと投句をするようになりました。
子規の亡くなったあとは、高浜虚子に俳句を教わり「ホトトギス」で活動を始めます。耳の病気の悪化で職を追われた際も、虚子門下の俳人の尽力で復職を果たしました。
10人の子宝に恵まれ、生活は困窮していましたが、俳人や選者としても活躍し生活は安定していきました。
1938年に胃がんのため、74歳で亡くなりました。
村上鬼城のそのほかの俳句
- 冬蜂の死にどころなく歩きけり
- ゆさゆさと大枝ゆるる桜かな
- 小春日や石を噛み居る赤蜻蛉
- 闘鶏の眼つぶれて飼われけり
- 鷹のつらきびしく老いて哀れなり
- 生きかはり死にかはりして打つ田かな
- 蛤に雀の斑(ふ)あり哀れかな