古来より受け継がれてきた伝統文芸の一つである「俳句」。
俳句と聞けば、「松尾芭蕉」「小林一茶」「与謝蕪村」など男性俳人の作品を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか?
古典俳人の多くが男性を占めるのは、俳諧の頃から五・七・五の文芸が男性のものとされてきたためです。やがて大正から昭和にかけて、次第に女流俳人の進出が目立つようになりました。
今回は、そんな女流俳人の中から中村汀女の【咳の子のなぞなぞあそびきりもなや】という句をご紹介していきます。
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— 西手祥石 (@Shouseki24te) January 26, 2019
作者はどのような背景でこの句を詠んだのか?また句に込められた心情とはどのようなものだったのでしょうか?
本記事では、「咳の子のなぞなぞあそびきりもなや」の季語や意味・作者など徹底解説していきます。
目次
「咳の子のなぞなぞあそびきりもなや」の季語や意味・作者・詠まれた背景
咳の子の なぞなぞあそび きりもなや
(読み方:せきのこの なぞなぞあそび きりもなや)
この句の作者は「中村汀女(なかむらていじょ)」です。
高浜虚子に師事し、昭和を代表する女性俳人として知られています。汀女が詠む句には日々の生活を詠んだものも多く、女性ならではの視点で情感豊かに表現しました。
季語
この句に含まれている季語は「咳」で、季節は「冬」を表します。
冬は空気が乾燥し、冷えなどから免疫力が低下しやすい季節。行き交う人々も咳をする人が多くなってきます。
このことから、「風邪」や「くしやみ」なども冬の季語になります。
このように季語には「水仙」や「雪」など、季節を象徴する花や天候だけではありません。
「咳」や「くしやみ」といった人間の動作まで含まれているのも、季語の面白いところといえるでしょう。
意味
こちらの句を現代語訳すると・・・
「咳をする我が子となぞなぞ遊びをする。やめようと思うが子供にせがまれ、きりがないことだなあ。」
という意味になります。
(※きりもなや… きりがないことだなあ ※咳の子・・・咳をする子)
この句が詠まれた背景
この句は大正7年~昭和18年に製作された句を編集した『汀女句集』に収められています。
汀女句集には、戦争の緊張感など感じさせない母としての優しさに満ちた穏やかな作品が並んでいます。
この時期は自由な表現ができず、新聞や報道といったメディアだけでなく、俳句においても制限下にありました。
そうした背景もあり、国家や体制から遠くかけ離れた日常生活に根ざした句はある程度表現の世界が守られていたのかもしれません。
またこの時代、俳句の世界では以前男性優位が続いていました。女性が詠む俳句はときに「台所俳句」だと蔑まれ、鑑賞するに値しないとまで言われていたほどです。
そんな中、汀女は「それでよし」と毅然に受け止め、主婦としての日常を詠む姿勢を貫き通しました。
『汀女自画像』に記された汀女の言葉にも、その決意があらわれています。
「私たち普通の女性の職場ともいえるのは家庭であるし、仕事の中心は台所である。そこからの取材がなぜいけないのか」と、訴えかけました。
汀女は穏やかな良妻賢母の顔だけでなく、周囲の目を気にすることの無い気丈さを併せ持つ女性でした。
「咳の子のなぞなぞあそびきりもなや」の表現技法
「きりもなや」という表現
一般的には「きりもなし」とするところ、作者はわざわざ「きりもなや」に置き換えています。
これは「なし」と強く言い切ってしまうと、余韻がなくなってしまうためだと考えられています。
確かに「きりもなし」と言い切る形では「いつまで相手をしないといけないのだろうか」と作者のうんざりした気持ちしか伝わってこないかもしれません。
しかし、感嘆助詞で詠嘆を表す「や」に置き換えることで「きりがないなぁ・・・」と心情の広がりを持たせる効果があります。
「きりもなし」に比べると「仕方が無いわね」と病気の我が子を慈しむ優しい笑顔までも感じられます。
句切れなし
句切れとは意味や内容、リズムの切れ目になるところをいいます。
感動の中心を表す言葉「けり」「かな」「や」などが含まれるところ、または句点「。」がつく場所がこれに該当します。
また、切れ字や句点が最後にしかつかない表現、または句切れがない場合を「句切れなし」と呼びます。
今回の句では最後(下五)の「きりもなや」に、詠嘆を表す「や」がついているので「句切れなし」となります。
文末に感動の中心をもってくることで、作者の子への深い愛情が強調されています。
「咳の子のなぞなぞあそびきりもなや」の鑑賞文
汀女は日々の暮らしの中で感じたことを、女性ならではの慎ましやかな気持ちで十七文字に表してきました。
この句と同様、我が子を詠んだ句も多く家族の幸せな姿が目に浮かびます。
現代では子供にテレビやDVDを見させ一人遊びさせることも多くなってきました。母親と子供の日常的なありようも変わりつつある中、普遍的な母親の愛情は今もなお私たちの心を暖かくしてくれます。
冬の寒い日、風邪をひいて時折咳き込む子供は、体のしんどさよりも楽しさが勝っているように感じます。寝ていなくてはいけないと思いつつ、いつまでも親に遊んでもらえる喜びでしょうか。
「もっと、もっと他のなぞなぞもして」とせがむ様子から、母親に甘えられる至福の時間が詠み込められています。そんな甘えを感じ取ってか、「もうお終い」が言えず遊びに付き合っているところに、母親の優しさが伝わります。
そして同時に、作者は母親にかまってほしい子供の時間もいつまでも続くように思えますが、心の中ではそんなはずがないと深く自覚しています。
その相克があってこそ「きりもなや」の詠嘆には、幸せな時間はけっして永遠に続くことはないと、どこか冷静なまなざしさえも含まれています。
作者「中村汀女」の生涯を簡単にご紹介!
(1948年の中村汀女 出典:Wikipedia)
中村汀女(1900~1988年)は、「星野立子」「橋本多佳子」「三橋鷹女」とともに「四T」と称された、昭和を代表する女流俳人です。
汀女は熊本県の出身で、本名を破魔子(はまこ)といいました。
県立高等女学校を卒業して間もない18歳の師走の頃、日課の玄関掃除をしていてふと詠んだ句「吾に返り見直す隅に寒菊紅し」が絶賛され、俳句を始めるきっかけとなります。
20歳の頃に熊本市出身の官僚「中村重喜」と結婚し、三人の子供を儲けます。夫の転勤とともに東京、横浜、仙台、名古屋などを転々とし、子育てに追われる生活で句作を中断したこともありました。
再開後は高浜虚子に師事し、俳句雑誌『ホトトギス』同人となります。
戦後1947年には俳誌『風花』を創刊・主催し、自身においても数々の句集を発表しました。家庭的で生活に密着した叙情的な作品は、多くの女性にとって俳句を親しむきっかけとなります。
後の女流俳人にも大きな影響を与えた汀女ですが、88歳の頃、東京女子医科大学病院で心不全によりこの世を去りました。
中村汀女のそのほかの俳句
- たんぽぽや日はいつまでも大空に
- 外(と)にも出よ触るるばかりに春の月
- 秋雨の瓦斯(ガス)が飛びつく燐寸かな
- とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな